春の匂いは好きなようで嫌い。でも好きにします。

季節の匂いってありません?

春は不思議な匂い。私には、どの季節にも感じない「春の匂い」が存在すると思ってます。というか、それ以外の季節の匂いは年によって違う。でも春だけは毎年同じなんです。それは、実に春らしく、掴みどころのない柔らかな匂い。少し湿気るからかな、ちょっとフワッとする匂いなんですよね。

自分は匂いと頭の中が繋がってることが多いんです。香りや匂いで出来事を思い出すし、結構人の匂いで好き嫌いを判断してます。(よく遊びに行く人は男女関わらずまず匂いは好き。)

だから、春の匂いはいつも同じだから、その匂いを感じただけで小学校の頃からの思い出がバンバン出てくるんです。

机の右上に貼ってあった座り方の図と小さな晴れ着、担任の先生が決まった瞬間、この新しい先生怖いらしいよ、恋、部活動新歓、ヨットの大会、高校で死ぬほどうるさいクラスが確定した瞬間、新入生歓迎会指揮、筋肉サークルばっかり勧誘しに来る、新歓責任者で死にそうになる、決心してから4日で帰国…。

他の季節では思い出せないのに、唯一、春だけはこの思い出たちが勝手に頭の中をめぐっていく。それも実に鮮明に甦る。

出来事を思い出すだけじゃないんです。一緒にその時の感情も思い出してしまう。緊張もあったし、戸惑いもあったし、楽しさもあったし、焦りもあったし、ドキドキもあったし、不安もあった。嫌な記憶だってもちろん覚えているんだから、あの時なぜああしなかったんだろう…って毎年反省してるわけですね。

そんなこんな、つまるところ春先だけは、びっくりするくらい色んな感情が入り乱れているわけで、わけわからない行動もするし、どうも集中力が続かない。何を言ったか覚えてない、と思ったら時間が経ってから完璧に思い出す。頭の中が完全にキャパシティオーバーになってしまうんです。意味も無く喜び、意味も無く絶望する。突然不機嫌になり、突然幸せで一杯になる。

今まではそんな自分に✕をつけていて、結構嫌ってたんですけど、今年からはそれは辞めます。いいじゃないか、狂ってて。いいじゃないか、変なことをしても。幸いして、まだ自分の人生は自分の分だけです。誰かと一蓮托生の運命共同体にはなっていないんでね。好きに生きよう、狂気上等、おかしくても気にせんといてくれ、そういう性格なのだから。と大きく割り切ることにしました。

行動は行動。結果は結果。導かれるままに、あるべき姿に。上手く自分に優しくして、失敗したら「しゃーなし」の気持ちで。出来ること、好きに生きていきます。

恋の馬鹿は馬鹿なりに価値がある

どーも、🦏です。

最近知ったんだけど結構🦏の由来の知名度って低いのね。苗字と名前の頭文字を取って🦏よ。らいのーらいのー。ご周知をば。

 

今卒業シーズンだなって思って、ふと昔のことを思い返してみた。したら、まあ黒歴史黒歴史黒歴史がわんさか出てくる。Gは一匹いれば百匹いる的な感じで、黒歴史は一個あれば千個あるってね。あれ、桁が増えてる…?

 

特に恋愛はまあ、もう、そりゃあ、もう() なぜこんな人間に彼女がいたのだろうかと悩むほどで。過去に戻って400回は叱りつけたい。怒りすぎて怒ってるまである。

にしても過去思い返せば本当に素敵な彼女ばかりだった。人生モテ期は三度来るらしいから、もう使い果たしたね。若い時に使ったんだからいいわ。某同期の大統領が「俺のモテ期は1歳と2歳と90歳で来る」って言ってたから(爆笑)、俺はかなり運に恵まれていた方だろう。大統領のエピソードの中で一番笑ったな。ちなみに二番目は、部活の集合場所に来なくて電話したら、曰く「間違って高速バス乗っちゃって今東京の方に行ってます」です。

 

馬鹿度合いに関して言えば、昔は仏も眉をひそめるレベルに凄まじくて、話しかけられただけで「俺のこと好きなんじゃ?」とか思ってた時期あったくらい。いや、ほんと。漫画の童貞みたいな発想をしてたのよ。本気で。やばいわ~~~……マジでやばいわ。
それからちょっと経つと余計にこじれ始めて、慕ってくれた後輩は(男女関わらず)みんな俺のこと好きなんじゃないかとか、そんなことを思ってた時期もありました。うん、重傷人。集中治療室で治療され過ぎて永眠してこい。

最近じゃさすがに成長したみたいで、本当にそういうことを思わなくなった。たぶん留学中にびっくりするくらい女性と関わらなかったから、諸々落ち着いたんだと思う。勘違いをしなくなったというか、あんまり感情に高低差がなくなってきた。線が平らになったって感じ。昔は一本の線に波があって高低差があったんだけど、今は常にイーブンで、時々同時に二つ三つの感情の線が押し寄せてくる感じ。これも時経てば一本の線に戻る。

 

そんなこんなで成長はしたんだけど、これは実はちょっといけないところがあって。冷静に分析すればするほど、自分を見つめる時間が長くなればなるほど、「これがいけなかったんじゃないか」とか「この発言はこれこれこうで、悪いんじゃないか」とか、考え始めて止まらなくなってしまった。昔はもっとワチャワチャしてたし、もっと自分勝手だったから、「馬鹿馬鹿勘違い!!俺死ね!!」と「あいつ絶対俺のこと好きだわ」の二択だったんだけど、今じゃ安定してるが故に「ここはこれでいけなかったと思う。次こうしよう。考えてから発言しよう」が続くようになってる。

実際今の方が見た目はいいんだけど、これって良い時が来ることが少なくて、ずっと腫瘍を抱えているような、長い鈍痛が続く。考え過ぎても意味がない、って切り捨てるなり、頭の片隅に保存するなりしても、決して無くなることはなくて、小さい塊になってストックされている。だから今じゃ「あいつ俺のことが嫌いなんだろう、距離保っておこう」って判断するようになった。

 

まあ?昔のクズに比べれば?今の方が幾ばくか良いんでしょうけど?笑
だからこそ「成長とは何かを失うことだ」って言葉は言い得て妙だなと思った。大人になって子どもに戻りたいと思った時、人間は初めて大人になるのだと思う。だから、子どもの絵に勝てない、子どもの時のような自由な発想をして絵を描きたい、と思っている名画家達は、その瞬間ごとにドンドン大人になっているから、一生戻れることは無いのだろう。ある種のパラドックスを抱えているわけだね。

 

いや良かった!!実に良かった!!大人になれたよ俺も!!

「あいつ絶対俺のこと好きだわ」から「あいつ俺のことが嫌いなんだろう」へ。

これが成長、これが大人だ!!!

最高!!大人!!

 

 

でもね、少しだけ、ほんの少しだけ、思うの。

 

馬鹿のままで良かった。

 

 

🦏

🦏よ、陰キャは陰キャらしく冬好きでいろ。

身の芯が凍っている日には温かいものがあるといい。

…あ、いや、カッコつけてごめんなさい、あの、熱々でなくてもいいので温かいもの下さい、すみませんホントニ…あ、恐縮です、、、。

似合わないことはしない方が良いな。カッコつけたところで付くカッコもないのだから、できる限り陰キャでいた方が身のためである。世の中にはカフェの店員さんに笑顔で話しかけて、返されるやすぐにキョドるなんて人もいるそうだ。ちなみになんですが、それはどこの俺ですか?

カフェにおいて言えば、元から返答できないのであれば、できる限り返答できないオーラを出してあげた方がいい。何故かカフェの店員さんという存在は陰キャにも優しくて、話せなさそうなら話さない、話せそうなら話す、と切り替えが大変上手なのである。ありがたい、無茶ぶりが面白いと思ってるカブレ陽キャと違ってこちらは本物の陽キャである。感謝する、君たちのお陰で世界は保たれている。

して、今日は久しぶりにいくつかカフェをまわってきたのであるが (共に精神的ダメージも負ってきたのだが)、外は驚く程に寒かった。人間寒すぎると「寒い!!」とか「寒すぎィ」とか言わずに「ア゛ア゛ア゛ア゛」と言ってしまうらしい。ごめんね周りにいた一般ピーポーよ、だからどうかそんな冷たい目で見ないで欲しい。

私の周りにいる人の多くが「夏と冬ならどちらが好きか」という問いに対して「冬」と答えるのだが、一度も共感できたことは無い。冬好きの人々が言うには、着ればなんとかなるとか、冬の夜空が綺麗だとか、クリスマスはデートが出来るとかなんとか。うん、良さそうだね冬…ちょっと共感しちゃった…。

とはいえ、そんな良さも寒さのせいですぐに吹っ飛ばされるのである。どうしても寒さというものに対して私は相容れない存在なのだ。だから夏がいい。暑い分には全然耐えられる。夏とか扇風機の前にいる時が一番夏として楽しんでいる気がするもん。あれ、それ寒くね?お前本当は冬が好きなんじゃ((

ただ陰キャであるのなら一番相容れない季節は夏ではなかろうか。だって夏ってあれでしょ、浴衣でウェイウェイ水着でウェイウェイ花火でウェイウェイするんでしょ(偏見)。としたら、陰キャが好きでいるべきは冬なんじゃない…?とか思うこともしばしば。

まぁ無論人によって好きであるべき季節なんて無くていいんですけどね。私は夏が好き、冬が好き、梅雨が好き…。好きな季節もそれぞれ、それこそ昨今叫ばれているダイバーシティなんである。いいねダイバーシティ陰キャもひとつのカテゴリだから!無理することないね!!

というわけでマジで無理するんじゃなかった…寒すぎる…。カフェは最高だったけどマジで寒い…。さぁ早く帰って買い込んだマンガでも読みますか!!!

目は口程に物を言う

目は口程に物を言う。

と言うが実際のところ分かっているわけではない。

正確には相手の目を見て心理状態を推し量っているだけなのである。だからそこに真実も嘘もない。わからない、というのが事の真髄だ。

だから目は口程に物を言っていない。目は口程に物を言っているように見えるだけである。

 

ただ当の本人がそう感じているかどうかは別である。

『目は口程に物を言っていない。理解できる感情は恐らくない。自分が相手では無いように相手は自分ではない。わからなくてい。伝えられない限り判定はされない。』

理性でわかっているそれは感性によってすぐにかき消されてしまう。あれほど確立された論理がすぐにいなくなる。実は目から語られるものがあるのではないか、目という媒体を通して私に嫌悪感を訴えたのではないか、目を以てして悟るべきなのではないか。

そんな言葉で頭が埋め尽くされる。

 

あ、今一瞬目を細めた。睨んだ?侮蔑した?訝しんだ?憤った?

聞こえる。

「今の発言はないわ」「黙れよキモオタク」「つまんな」

聞こえる。

「顔悪いなあこいつ」「うざい」「マジでこいつと喋るのしんどいわ」「そういうこと言わないでくんない?」「傷つくな今の言葉」「これからあんまり話さないようにしよ」「近寄んなよ」「見ないでくれねえかなあ」

聞こえる。

 

聞こえてしまう。

 

そこに真実も嘘もない。あるのは「わからない」という事実だけ。

でも聞こえるのだ。自分の失態、誤謬、過ちを蔑む声が。

 

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

 

心の中でとにかく叫ぶ。間違いを詫びて許しを乞う。届いていない言葉を届けようとする。

 

そして目で口程に物を言う。

『遊ぶんこう』

(他のところで書いてた記事です。スーンはラオスに行って教育支援するボランティアサークル。ぺんは🦏のペンネーム(?))

 

こんにちは!ラオス学校建設教育支援プロジェクト~スーン~のぺんです!
今回は今後スーンでチャレンジしていきたいことについて話したいと思います!!

さて、私の所属している文化構想学部は通称「遊文構(あそぶんこう)」と呼ばれています。まあ、なんというか、遊んでる大学生が多いからなんでしょうね。どんなイメージかは定かではありませんが、おおよそ、ろくに授業も受けず勉強もせず麻雀しては飲んで色事に勤しんでいると思われているのでしょう。よく言われます、お前らいつ授業受けてるんだ、とか。遊んでばっかりやな、とか。私自身はそんなに遊んでいないと思っていますが、理系の方の苦しさを見るとやはり遊んでいると思われても仕方ないのか…と思うときはしばしば。

さて、そんな「遊ぶ」ですが意味としては「 何もしないでぶらぶらして時を過ごす。決まった仕事・職がなく暇でいる。 」「 飲酒色事ギャンブルなどに身を入れる 」などがあります。いわゆる遊文構の遊ぶはこれですね。(うーん、やっぱり文構生は遊んでいるのか…)要は快楽に身を任せている状態です。

しかしながら、遊ぶには実はとても重要な別の意味もあります。「スポーツ趣味など好きなことをして楽しい時間を過ごす。 」「見物勉学のために他の土地へ行く。 」という意味です。これはいわゆる娯楽や快楽の赴くまま行動している「遊ぶ」ではなく、「何か身の入ることに没頭する・勉強する」ことを表しています。そもそも、「あそぶ」とは古文において詩歌管弦を楽しむことでありました。よって快楽に身を任せることだけが遊ぶではないのです。何か楽しむために力を込めて活動すること、それが遊ぶなのです。ですから飲みまくって勉強もせず働きも活動もしない、その遊ぶは「遊ぶ」と書いて「すさぶ」と読む遊ぶなのでしょう。終日飲みに明け暮れ勉強も行動も起こさない人は「あそ」んでいるのではなく「すさ」んでいるのです。(遊文構をすさぶんこうと読むと途端に恐ろしさが増しますね)

ですから私は遊び(あそび)にはとても大きな意味があると思っています。人は遊ぶとき、何か身体を動かして活動し、世界と関わります。自ら自分を社会の中に入れて他者と交流し、情をつくります。これこそ遊びの効果であり、遊びの本質なのです。小学生の頃、放課後外に出て友達と鬼ごっこや野球、カードゲームやDSなどで対戦ゲームをしていた、あの「遊び」はれっきとした「あそび」であり、たとえテレビゲームでも「すさび」ではなかったのです。自分と他者の間に社会を創る。うまく調整して相手との歩調を合わせる。そしてお互いの情を深めるなど、何かを共に達成する。こういったことが為されていたのが遊びであったわけですね。

(中略)

遊文構ではなく遊文構として。この漢字の読み方はもうお分かりですね笑
遊文構の民として、子どもたちに「遊び」を広めたい。これが今後団体でチャレンジしたいことです。実現に向けてこれからも頑張ります!!

さながら

もう最近忙しくって。

 

サークル?就活?いっぱいあるけど。

恐ろしいことにね、

 

忙しい時ってゲームしたいの。

 

何も考えず。ただ。

 

時間を溶かしていくとはこのこと。

 

何か得たいものあるかって?いや、負けようが勝とうがどうでもいい。

 

石ころ蹴る時もそうでしょ?

 

蹴ってる石が無くなったらやめるの。

 

飽きたらやめるし

 

飽きなければ続ける。

 

それじゃ世界は変わってないじゃん。

 

そう言いたいんでしょそうでしょ。

 

 

それが変わってるんだよ。

 

面白いでしょ。

 

なにが変わってるかって?

その時間で後悔が重なってる。

 

 

あら、そんなあきれた顔しないで。とても重要なことなのだから。

 

後で増える悔の念を貯めて

終えてからそれに涙する。

 

気づいたときにはもう遅い、

じゃない

だって最初から気づいてるから。

変えられる未来を変えないで

変えられた過去だと悔やみ泣く。

それが俺の人生。

 

それが俺のさながら。

塩の絆創膏

風の当たる場所で二人は同じところを見つめていた。乾いた砂をひたすらに。
ただ同じ砂丘を見ていても二人の視線は一度も交わらなった。
見えない視線も、それだけははっきりわかってしまった。

 

なんでだろう。話しかけてしまった。

 

「なあ。どこ見てるの?」

「砂の…丘ね」

「だろうよ。どの砂の丘かって話」

「風で常に移り変わるのに限定なんてできないでしょ」

「屁理屈め。右から二番目とかあるじゃん」

「じゃあ右から二番目」

 

これ以上ない苛立ち。
でもグッとこらえる。これが私の優しさだから。

 

「怒らないんだね」

「怒り狂いたいところだけどね。俺ってば優しいから怒ってあげない」

「優しい…?」

「え、なに、そんなに不思議なこと言った?」

 

初めて視線が交わった。
でも見てはいけない目だった気がした。その先には憐憫さえ見えた。

 

「もしかして本気で言ってる?いい?君に優しさは無いよ。」

「随分な物言いじゃないか。どうして。」

「君の優しさは偽りそのもの。偽りで固めた所謂嘘ってやつだから。」

「何を言うかと思えば。そんなわけあるか」

冗談だろ、と言いかけた言葉を遮る。

「君の優しさは優しいとは言えないの。言うなれば真実から目を背ける能力」

「はあ、なんだそれ、話にならないな」

「ね。」

 

言ってから気づいた。
ああ、これは墓穴を掘った。もう二進も三進も動けない。聞かなければいけないのだ。

 

「『優しい嘘』は良いよ。でも『嘘の優しさ』は傷口に塩で出来た絆創膏を貼るようなもの。」

「塩の、絆創膏?」

「そう。君、実は周りの人が苦しみ悶えてるのが大好きでしょ?」

「はあ!?そんなわけあるかっ…!!!」

 

あまりの怒りにまともに返す言葉が無い。
そう、怒りで言葉なんて返せなかった。そうだった。

 

「君はその塩の絆創膏でできてしまった傷をどうすると思う?」

「だから!!そんなもの持ってないって!」

「その絆創膏を剥がして、もう一回別の塩絆創膏を貼るの」

 

あたりが静まった。

 

「見たくないものを見ないようにして。それでいてそっと相手の傷口に徒をする。苦しいと訴えてきたらもう一度絆創膏を貼ってあげる。残酷でしょう?」

 

息切れする音だけが聞こえる。

 

「安心して、私はそんな君が好きだから。放っておいてあげてるの」

「そんなこと…してない…」

フフっと小さな笑いが聞こえる。

「あれだけ嘘が下手くそなのに、実はとっても上手なのね。残酷な人。」

 

 

また砂丘を見返した。目は乾ききっていた。