遺書(仮)

 今日ようやくわかりました。今日ようやくわかったのです。

 私の嫌いで仕方のない、私の本質がようやく見えたのです。

 

 話しましょう、私は私の嘘が心底嫌いです。

 

 褒められること、評価されること、良いといってもらうこと。それは人が一生追い求めてしまう、人間が必ず付き合わなければならない性なわけですが、これらを無為に求めようとしている人間はおしなべて、殊に醜く、無様で滑稽です。

 

 でも生憎なことに、これらは無くては生きてゆくことが出来ません。褒められて、評価されて、良いといってもらえない人間は、必ず死に至ります。生物学的な生死にはつながらずとも、もう能動的に「生きる」ということが出来なくなってしまうわけです。

 だから、三点論法的に言えば、生きるためには、醜く、無様で滑稽に過ごすしかないのです。誰もがそう生きており、誰もがそれを受け入れています。ある意味その受け入れた覚悟を持って生きる姿は美しいとも言えましょう。

 

 そして、褒められようとすることの中で、最もいけないことが、嘘をつくことです。つまり実体のない実績を口だけ出まかせで振りかざして、あたかもそこに成功があるように見せかけようと振舞うことです。

 成功のために頑張る人間は美しい、でも実績を褒められようとする姿は醜い。ただその中でも、ありもしない実績を褒められようとすることは、これはもう醜いとかそういう次元を超えています。あまりに酷い、言葉に表すこともできないほどに、醜悪で、惨めで、気色の悪いものです。

 

 そう、何を隠しましょうか、この気色の悪いことを人生通じて遺憾なく発揮してきたのが、私です。私そのものです。

 

 

 昔から褒められることは好きでした。醜くも褒められるために色んな事をしました。自分の好き嫌いよりも褒められることを、誰かのためかどうかよりも評価されることを、進んで執り行ってきたつもりです。

 得てして、周りの嫌がることを進んで行うと、どうやら褒められることが多いもので、それはもう嫌な役回りは大体引き受けてきました。お陰様で”リーダー職”のようなものに就く機会が増え、褒められやすい立場にいることが出来ました。

 

 リーダーのできる佐久間はすごい、人の嫌がることもちゃんと行う佐久間はかっこいい、面倒な勉強も真面目に取り組んでテストで高得点を取る佐久間は偉い。こういった言葉のために一心を捧げ、自我が何かもわからずに色んな事に耐え忍んでは、褒められる快感を得てきたわけです。

 

 ただし、見てきたとおり、彼は一度としてリーダー職に就くことも、人の嫌がることも、勉強も、それに能う力があって取り組んできたわけでもありません。後で褒められるから。それだけ、たったそれだけで、そういったことをしてしまったわけです。

 

 そんな人間です、年を取るにつれ、次第に身の回りから、自分の能力で賄えるものが減ってきます。自分の力ではどうにもならなくなります。でも出来ないことは許されない、褒められなくなってしまうから。評価されなくなってしまうから。現実問題として出来ないかもしれない、でも出来たことにしないといけない。

 

どうしよう。

実績を聞かれてしまう。

どうしよう。

 

 

そうして、私は、嘘をついたのでした。

 

 

出来なかったけど、出来たっぽいことにしよう。

出来ていないけど、出来ているように見せよう。

出来ていないことは恥ずかしいから。出来ていることが褒められることだから。

 

 日々嘘だけが私の周りに付き纏います。何もしていないのに、何かをしたことにします。ホントのことなんてほんの少しで、話す言葉の大体が嘘で塗り固められたものになっていきました。

 やがてその嘘は現実に侵食してきます。本当に実績を残したのではないかと私自身が錯覚します。気が付けば驚くほどに嘘をつくのが上手くなっていき、誰も彼も、自分自身さえも、佐久間の言葉を疑わなくなりました。酷く整合性の取れた嘘の物語の出来上がりです。

 

 でも嘘は嘘です。何も成し遂げていないことくらい、佐久間本人が心の奥底で理解しています。嘘なのに褒められること、それはとてつもなく心に負担がかかります。出来もしていないのに、その虚像が褒め称えられることは、罪悪感なんてレベルじゃありません。褒められた瞬間の快感と、その後の罪悪感の絶望は、私をしっかりと確実に蝕んでいきます。

 褒められずに生きてはいけないから、どれだけ苦しくても、嘘をつかねば。生きるために、私自身の心の平穏のために、ずっとずっと嘘をつき続けます。

 

 大学二年生の時でしょうか。ある日カビに蝕まれたのです。詳しくは私の別の文章を読んでもらえれば良いのですが、要は人が好きになれなくなってしまったのです。好きだった彼女に何の感情も浮かばなくなってしまいました。

 恐らくこれは、彼女の近くで見栄を張り続けた結果、私の心が耐えられなくなり、私が本心を見せてしまった。でも本心を見せてしまっては、虚ろの佐久間像が壊れてしまう、佐久間はこれを恐れた。だから思ったわけです、「人との関係を遮断したい。人が関わってくる事象を無かったことにしたい。声を聞きたくない。」そうすることで、自分の嘘を守ろうとしたのでしょう。

 

 どれだけ苦しんでも私の嘘はやみません。嘘つきは就活でもその力を遺憾なく発揮します。こともあろうか、就活は話しているだけです。嘘のオンパレードです。私が真実と思い込んでいる嘘を、佐久間が好きなように話します。それはそれは上手に。見事就職です。

 

 

 ただその嘘と能力の乖離も遂に限界が来ました。ビジネスは嘘を許しません。出来ていないことは出来ていないこととして処理する。出来ていないんだから、出来ていない人として評価する。当たり前です。これがビジネスです。

 

 その不安たるや想像以上でした。出来ない人間になりたくない、嫌だ、褒められなくなるのは嫌だ、評価されたい、良いって言ってもらいたい。頼む誰か…。

 

 私の嘘は私を見放していませんでした。また、嘘が付けました。それっぽく話すだけで、会社で評価されるようになりました。最高です。

 気が付けば、同期で一番評価されているではありませんか。ドンドン仕事は任され、素敵なことに上司の評価はうなぎ登りです。できる人扱いしてもらえます。

 色んな人に仕事の仕方を聞かれ、後輩に慕われ、上司に褒められる。求めていた世界です!求めていた私の理想の世界がそこにはありました!!!

 

 …やめてくれ。

 もう、嫌なんだ。

 やめて。お願い、やめて。

 

 ある時からキャパオーバーになります。色んな提出物が期限を守れなくなりました。出来ていないこともバレてきました。もう嘘はつけません、遂に出来ないことが明るみに出ます。

 

 そして今日です。「進め方が良くない」「期限を守れていない人間は信頼できない」「今の佐久間は行動評価が-100くらいだ」「ちょっと酷すぎ、あの仕事のやり方は」そう言われました。

 

 辛かった。耳を塞いでいたかった。帰りたかった。でも正直救われました。そうなんです、私はそうなんです。私は、そういう人なんです。辛い気持ちの中で、佐久間の中の何かが泣きながら感謝を述べていました。

 

 なのに、どうしてか、その後に「佐久間には期待しているんだ」「2年目でこれだけ仕事のできる人間は俺はほとんど見たことない」「せっかく評価しているんだから、キャリアが傷つくようなことするな」「これだけ優秀なのにもったいないぞ」なんて悪魔のようなことを上司は言い続けるのです。

 

 最悪だ。最悪だ、まだ私は嘘をつかなきゃいけないのか。まだ、私はありもしない佐久間の嘘の像にしがみつかないといけないのか。やめてくれ、早く俺を救ってくれ。出来ない奴だってちゃんと罵ってくれ。無能だ、ダメ人間だ、ろくでなしだって大声で叱ってくれ。頼むから、もう、期待しないでくれ…。

 

 結局そんなことも言い出せず、ノロノロと家に帰ってきたわけです。そして3000字に渡る駄文を書き殴っては、床に突っ伏して吐きそうになっているのでした。

 

 遺書にも出来ないまま。

 

おしごと。

はじめまして、現場での挨拶が初めてでごめんなさいね、忙しくて。
今日からトレーナーになります…なんて言いましょう。まぁ気軽にトレーナーと呼んでくれれば。

覚えることが多くて、大変だと思いますが頑張っていきましょう。ゆっくりでいいので覚えていってくださいね。メモは忘れずに。

まず初めは後片付けから覚えましょう。ちょうど散らかってますし、作業しながら覚えていきましょうか。
…え?何故片付けから学ぶかって?最初は雑務からやるものですよ。ただ、雑務は雑務にあらず、これも立派な仕事です。

さて最初に問題です。後片付けで一番大事なのは?
綺麗にすること?…残念、違います。正解は効率です。早く終わらせること。とにかくこれが大事。もちろん綺麗にしなければなりませんが、最速で一番綺麗にする。

いいですか、こういう時、道具はケチっちゃいけません。使えるものは大量に使うのです。贅沢ですよね。でも良いんです。
とにかく速く。人が集まってからでは遅いですから。

ちなみにこれがバキューマーです。ただ、用具の取扱いには資格が必要なので、君は箒になっちゃいますけどね。
噂では一流になると、あえてバキューマーではなく箒を使う人が増えるそうですよ。極める人は凄いんですね。

ん?あ、それはほっといていいです、この国の警察がなんとかするので。我々の仕事は物体よりも優先するものがありますから。先にそちらを片付けましょう。

いやはや、今回も大変でした。中々上手くいかなくて。意外と怖がっちゃう人もいるもんでね。
失敗したこと?何回もありますよ〜。その度に始末書ですから。あ、失敗したら始末書のフォーマット教えてあげますよ、あれ書き方があるので笑

…よし、だいたい集め終わりましたね。そしたら形をある程度整形して、籠に入れます。だいたいこれくらい集まってれば転生に事足りるので、怒られることも無いでしょう。何個かパーツがありませんが、まぁ良しとしましょう、来世で多少何かしらの不具合があるくらいです。

あ、私の鎌ですか?見たいです?
じゃーん、これです。ベースはそうですね、モデルサリエルです。でもこれ見て、ちょっと柄を長めにしてるんですよ〜この方が魂狩りやすくて。ただ、これだと振り回し動作の入りが…あ、マニアックな話になっちゃいましたね。飲んでるときにでも話しましょうか笑

テキパキ作業できましたね。警察が来るよりも速く終わったので完璧です。にしても最近は忙しいですね。不景気?とかなんとかで、やけに飛び降りが多くて。ちょっと前まで水銀だったのに今はほとんど飛び降りです。駅だと人目が多すぎるんで、せめて崖とかにしてほしいんですが、そうもいかないんですかね〜。時代ですかね〜。

カビに蝕まれてしまったのでした ー1

皆さんは人は好きですか。

この聞き方は不十分だという人もいるでしょう。「人」には多くの意味が含まれるからです。

「人」の属性には、例えば、友人、恋人、上司、後輩、同期、教授、親、兄弟などがあります。「人」が好きかどうか聞かれてもどの「人」であるかわからないので、質問として不十分なのですね。

また、仮に「友人」が好きかどうか聞かれてもそれもまた不十分です。友人を作ることが好きなのか、今いる友人が好きなのか、友人という概念そのものが好きなのか、など見方によって取りうる意味が変わります。つまり友人の何について聞いているかの意味を知る必要があります。尤も、友人が何なのか、についても全くわかりませんし、範囲の定義も不十分と言えます。

さて、それを踏まえてなのですが、もう一度聞きます。

皆さんは人は好きですか。

さっきまでの話は何だったのか、という人もいるでしょう。だから人の何について聞いているのか、と。
ただ私にとってはこの問いはどんな形であれ、意味が変わらないのです。私に限って言えば、この質問の聞き方を訂正する必要がありません。どんな聞き方をされても常に答えは同じなのです。
つまり、「人」において、どのような属性であっても、どのような見方をしたとしても、私は人が好きではありません、何なら嫌いです。

 

いつからこんなことになってしまったのでしょうか。
昔話をしましょうか。

少なからず小学生の頃はこうでは無かったはずです。どうしたら人に好かれるのか、どうしたらあるべき姿でいられるのかを常に考えていました。こんな言い方をすると大げさに聞こえますが、要は嫌われないように上手く立ち回っていたのです。当時大嫌いだった野球も、友達が放課後に野球をすると言えば必ず参加しましたし、約束していた遊びに友達が来なくても、決して怒ることはありませんでした。話し合いで決まらない係決めは大体私が立候補することでその枠を埋めました。「好かれる」とは、相手の要望に柔軟に答え、そして相手の求める解を出す行動だと、少年ながらにわかっていたのでしょう。

中学、高校となっても、その考え方は変わりません。程度に差は出たものの(あるべき姿を追い求め過ぎた結果空回りし無茶苦茶なことになったことはあれど)基本的に人に嫌われないように生きていました。無論、私のことが嫌いな人間もいたでしょうし(誰かということは今でも言えますが)、私も嫌いな人間がいました。しかし、そういった人たちにも、嫌われていること、ないし、嫌っていることを悟られることなく「上手く」やることで、疑似的に嫌われていない空間を作り出していたのでした。

大学になって少し変化が起きます。「人」を好きになれない瞬間が出始めたのです。一番最初は彼女からでした。彼女のことが全く好きになれなくなりました。次に友人、先輩、後輩とその範囲は広がり、好きになれない対象が増えました。こうなるとその人とは二度と関わりたくないとさえ思っていました。今まで嫌いな人間こそあれ、好きな人間を好きになれない瞬間なぞ、一度たりともありませんでした。故に私は大いに混乱しました。「好き」という気持ちが湧いてこない。胸の辺りから湧く「楽しい」という感情が出てこない。その時期は私は酷く傷ついていました。幸いして、それは発作のようなもので、何度か体験することはあれど、数日経てばケロッとその感覚は無くなっていたのでした。

ただ(「人を好きになれない瞬間」の名前が必要ですね、カビとでも言いましょう)そのカビが知らぬ間に徐々に私を蝕んでいったようです。カビが出始めた頃は三か月に一回だったものが、今や二日に一回です。普通の日の次の日には「人が好きになれないなあ」と思ってしまうのです。否、問題はさらに深くなっています。人を好きになれないのではなく、「嫌い」になってきたのです。

友人に対して自暴自棄とでも言いましょうか、「こんな人間には関わりたくないでしょ、黙って縁でも切ってくれればいいのに」「俺のことブロックでもしてくれないかなあ」と思うようになりました。(現にこんなひどい言葉を書き出すだけでも心が大分楽になります)根本に通ずるものは、放っておいて欲しい、放っておきたいの二つです。自分に自信が持てないだとか、そういう領域ではありません。人との関係を遮断したい。人が関わってくる事象を無かったことにしたい。声を聞きたくない。そう思っているのです。

とんだ傲慢で不義理な人間です。

(続く)

 

 

 

 

欲嫌い

どうにも欲というものが嫌いだ。欲は己のために他人を不快にするものだ。黒い煙とも泥水とも似つかない得体の知れないそれは、己の頭とと他人の喉にゆっくり確実に這い寄って締め付ける。歪な自らの笑みと引きつった他人の顔が生まれ、この世で最も忌むべき時間が無為に流れる。その瞬間が嫌いだ。

欲と云っても食欲と睡眠欲は好い。その二つの欲は自分に罰が下る。腹を壊せば動けなくなる。起きる時間を間違えれば予定が狂う。尤も病院通いや遅刻癖は、迷惑をかけるということに違いは無いが、そんなもの他と比べれば守宮の噛みつきも同然である。好くないものは物欲、性欲、嫉妬、独占欲、保身、承認欲。数えればキリが無いが、すぐに頭に浮かぶはその六つだろうか。そやつらのせいで、人との間にある清いもの、誰かがそれは心と云ったか、その白色に黒を容赦なく塗りつぶしていくのだ。

 

 

気持ち悪い人。

痛い、寂しい、つらい、嫌い、気持ち悪い、殺してほしい。

いつも寝る前に考える言葉。

気がつくと殺してって言っている。

別に命を絶ちたいわけじゃない。何も自殺したいとかそういうことじゃない。

でも殺してほしい、嫌な自分を抹殺したい。

 

あるべき自分と今の自分が離れすぎている。

享受したものに対して授与したものが少なすぎる。

幸せを幸せとわかっていない自分が憎い。

殺してほしい。今の自分はあるべき自分じゃない。殺してほしい。

あるべき姿になれなければ俺は借金を背負ったままだ。

心がくすんでいる、これだけ与えられているのに、淀みきっている。

 

吐きたい。

 

気持ち悪い。

自分を表す一言を選べと言われたら俺はたぶん「気持ち悪い」を選ぶと思う。

こんなに吐き気を催す人間いない。

嘘と偽り、怠惰で軟弱。主役でも悪役でもモブでもない。

存在が無い、あるけれど無い、矛盾という名の気持ち悪さ。

気持ち悪い。

 

こんな人間が何かを求めているというだけで気持ち悪い。

求められるわけがない。求めることが許されるのは与えているものだけ。

 

彼女は主人公だった。間違いなく世を救う一人だった。

輝いていた。いつも傷だらけだったけど、それも誇りに見えた。

美しかった。ただ美しかった。生き様がかっこよかった。

そんな綺麗な人に何故俺が近くにいるのだろう。

どこかに消えたほうがいいんじゃないか。去ったほうがいいんじゃないか。

 

でもそれも怖い。できれば近くにいたい。求めてしまう。

気持ち悪い。気持ち悪い人間なのに。

だから、付かず離れず、彼女の幸せを願うことを徹底する。したい。

そうであるべき、べきなのに。

女々しい。するべきことができない。

 

最悪だ。

いっそ本当に消えてしまえば締めとして恰好がつくのだろうか。

でも、もちろん、そんな勇気もない。

 

ごめんなさい。許してください。ごめんなさい。

 

それは本当に「好き」ですか?

そいつは花が好きだと言った。
花びらが、茎が、根が、全てが好きだと言った。可愛らしく、美しく、かっこいいと褒めそやした。


でもそいつは残酷だった。
晴れの日にその花に近寄ったけど、雨の日にはまともに見ることも無かった。雨で折れそうな花を傍目に、傘一つくれてやらなかった。

そいつは花びらが特に好きだと言った。とても美しく舞う花びらが好きだと。その花びらを愛でていた。でも雨の日、落ちる花びらにそんな事は言ったこともなかった。

そいつは花が好きだったのだろうか。

そいつは花を好きだなんて言えるのだろうか。

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【キモいので閲覧注意】門も締まる時間に狭いキャンパス通路をハグで塞ぎカップル

どう考えても、あの「門も締まる時間に狭いキャンパス通路をハグで塞ぎカップル」のせい。マジで。もやもやしたものが収まらない。ハグ。んんん…。

 

事の発端は今日の昼。父親に任されていたことを失敗し、父にガッカリされ、あげく授業で大学に行かねばならなくなったせいで、その後始末を母と妹に任せることになり大変気分が落ち込んでいた。

ただでさえ最近やるべきことをできておらず、ゼミグループにも内定者グループにも、サークルにさえ貢献できていないと、気分が落ち込んでいた今日この日この結末だ。

中々に自信を無くし生きていた中でこの失態は結構響いた。二人に申し訳ないし、「そんなこともできないのか」と言われているような気がした。

 

いざ学校に行ってみれば、水爆実験のせいで放射能被害に苦しんだマーシャル諸島の人の話、不適切画像で弱みを握られいじめられていた旭川の女学生が自殺した話など、あまりの現実に心を痛めた。吐きそうだった。

なんだか、悲しくなった。

自分が当たり前のように苦しむ人がいる世界を肯定している加害者であることにも、その被害を一切受けずにのうのうと生きていながら尚幸せを恒久的に享受していることを自負できていないことにも、自分が幸せな一方で他人を不幸にしたことがある事実にも、失望した。

昼の事件も相まって、自分の存在が気味の悪いほど嫌になった。胃の中に黒いスライムみたいなものがある、絶妙な気持ち悪さがあった。

 

その帰りにあのカップルだ。何の気兼ねもなく(というか俺の足音聞こえてたろ)ハグしていたカップルの隣を通り過ぎた。小走りで。なんか邪魔している気がして申し訳なかったし。というかあの狭い道で彼らをギリギリで躱していることに罪悪感を感じたし。

でもそのシーンが自分の脳裏から離れなかった。

人肌に触れ安らいでいるという事実が気になった。周りは気にせず彼らの世界で安息を得ていることが羨ましかった。

自分もそうだったら今のこの気持ちは無くなっているんじゃないか。そんな風に考えると急に欲する気持ちが湧いた。触れることで安心したい。自分が存在していることを確認したい。空の空間を埋めたい。自分が安心することができたなら。スライムを消したかった。吐き出しそうな気味の悪さを無くしたかった。

 

電車に入ってイヤホンを繋いで、頭の中を落ち着けた。疑似的に自分だけの空間を作りたかった。でもそのせいで、いやそのお陰で段々と自分の愚かさに気づいた。

何故自分の安心のために他人に触れたいなどと思ったのだろう。自分のためのハグは相手にとってどれほど迷惑なことか。自分は良くても、誰かはわからないがその「相手」は何を思うのだろう。それが仮に「彼女」という属性の持ち主であったとしても嬉しいとは限らない。というか自らの安心のためにするハグに相手にとって一体何の価値があるのか。一方的で、高圧的で、自己中心的な実に気味の悪い考え。気持ち悪い。気持ち悪い。

 

お陰様で吐いた。自分が気持ち悪かった。余計に嫌な気分になった。ハグで塞ぎカップルは悪くない。彼らを見てしまうタイミングがいけなかった。気持ち悪い心を持っている自分がいけなかった。

でも知らない。今日はハグで塞ぎカップルのせいだ。もやもやが収まらない。理性と感情が反していることがまた気持ち悪い。気持ち悪い。

 

 

 

 

 

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