カビに蝕まれてしまったのでした ー1

皆さんは人は好きですか。

この聞き方は不十分だという人もいるでしょう。「人」には多くの意味が含まれるからです。

「人」の属性には、例えば、友人、恋人、上司、後輩、同期、教授、親、兄弟などがあります。「人」が好きかどうか聞かれてもどの「人」であるかわからないので、質問として不十分なのですね。

また、仮に「友人」が好きかどうか聞かれてもそれもまた不十分です。友人を作ることが好きなのか、今いる友人が好きなのか、友人という概念そのものが好きなのか、など見方によって取りうる意味が変わります。つまり友人の何について聞いているかの意味を知る必要があります。尤も、友人が何なのか、についても全くわかりませんし、範囲の定義も不十分と言えます。

さて、それを踏まえてなのですが、もう一度聞きます。

皆さんは人は好きですか。

さっきまでの話は何だったのか、という人もいるでしょう。だから人の何について聞いているのか、と。
ただ私にとってはこの問いはどんな形であれ、意味が変わらないのです。私に限って言えば、この質問の聞き方を訂正する必要がありません。どんな聞き方をされても常に答えは同じなのです。
つまり、「人」において、どのような属性であっても、どのような見方をしたとしても、私は人が好きではありません、何なら嫌いです。

 

いつからこんなことになってしまったのでしょうか。
昔話をしましょうか。

少なからず小学生の頃はこうでは無かったはずです。どうしたら人に好かれるのか、どうしたらあるべき姿でいられるのかを常に考えていました。こんな言い方をすると大げさに聞こえますが、要は嫌われないように上手く立ち回っていたのです。当時大嫌いだった野球も、友達が放課後に野球をすると言えば必ず参加しましたし、約束していた遊びに友達が来なくても、決して怒ることはありませんでした。話し合いで決まらない係決めは大体私が立候補することでその枠を埋めました。「好かれる」とは、相手の要望に柔軟に答え、そして相手の求める解を出す行動だと、少年ながらにわかっていたのでしょう。

中学、高校となっても、その考え方は変わりません。程度に差は出たものの(あるべき姿を追い求め過ぎた結果空回りし無茶苦茶なことになったことはあれど)基本的に人に嫌われないように生きていました。無論、私のことが嫌いな人間もいたでしょうし(誰かということは今でも言えますが)、私も嫌いな人間がいました。しかし、そういった人たちにも、嫌われていること、ないし、嫌っていることを悟られることなく「上手く」やることで、疑似的に嫌われていない空間を作り出していたのでした。

大学になって少し変化が起きます。「人」を好きになれない瞬間が出始めたのです。一番最初は彼女からでした。彼女のことが全く好きになれなくなりました。次に友人、先輩、後輩とその範囲は広がり、好きになれない対象が増えました。こうなるとその人とは二度と関わりたくないとさえ思っていました。今まで嫌いな人間こそあれ、好きな人間を好きになれない瞬間なぞ、一度たりともありませんでした。故に私は大いに混乱しました。「好き」という気持ちが湧いてこない。胸の辺りから湧く「楽しい」という感情が出てこない。その時期は私は酷く傷ついていました。幸いして、それは発作のようなもので、何度か体験することはあれど、数日経てばケロッとその感覚は無くなっていたのでした。

ただ(「人を好きになれない瞬間」の名前が必要ですね、カビとでも言いましょう)そのカビが知らぬ間に徐々に私を蝕んでいったようです。カビが出始めた頃は三か月に一回だったものが、今や二日に一回です。普通の日の次の日には「人が好きになれないなあ」と思ってしまうのです。否、問題はさらに深くなっています。人を好きになれないのではなく、「嫌い」になってきたのです。

友人に対して自暴自棄とでも言いましょうか、「こんな人間には関わりたくないでしょ、黙って縁でも切ってくれればいいのに」「俺のことブロックでもしてくれないかなあ」と思うようになりました。(現にこんなひどい言葉を書き出すだけでも心が大分楽になります)根本に通ずるものは、放っておいて欲しい、放っておきたいの二つです。自分に自信が持てないだとか、そういう領域ではありません。人との関係を遮断したい。人が関わってくる事象を無かったことにしたい。声を聞きたくない。そう思っているのです。

とんだ傲慢で不義理な人間です。

(続く)